「自分で書く私の履歴書」というほぼ白紙の本がある。章のアウトラインと書くためのポイントは記されている。(Hatenaブログ編集でのツール利用で、次に示すようなAmazonで購入可能な商品紹介の差込は大変楽である)

自分で書く「私の履歴書」 (日経ビジネス人文庫)

自分で書く「私の履歴書」 (日経ビジネス人文庫)

  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
  • 発売日: 2001/11
  • メディア: 文庫
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私もいつの日にか書いてみようかなとも思って購入して、約12年経つが今後書きそうもない(書くとしてもこのブログで十分だ。上記本もKindle化されない限り、売れないだろう)。その中味で避けられないのが、子ども時代の思い出である。通常の日々のブログには書くことはない内容なので、昨日までの新聞連載記事の流れもあり、今回は少し記してみる。
一言で私の場合を要約するならば、物質的にも精神的にも貧しい家で育ったため選択肢は子どもの頃から極めて少なかったということになる。
(いずれ、誰もが何らかの形で、自分の振り返りにはこのように「・・ように育った」と自分の親を評価する。私自身もいつの日にか、子からそのようにされるのだろか。私はその頃の親の全貌を理解していない状況で、子の観点から親を評価するということは大変に不遜なことだが、その頃の学校と食生活に関する子どもの私が日々感じていたログを残しておこうと思う)。
 
まずは教育について。学校は義務教育のみが許された。高校以上に行くのなら国公立のみ、浪人するぐらいなら丁稚奉公させると言われていた。それは私も兄も同様だった。滑り止めの学校は受験させて貰えなかったので、基本的にはいつも一本で、危機意識は常に持って緊張していた。リスクはいつも避ける選択をし続けた。一度、父親に、自分は海外の大学、また受験科目の少ない私学に行きたい、卒業後働いたら学費は必ず返すからと懇願したが、許可はされなかった。なぜダメなのかと問い詰めた。「私学で良いとなると甘くなる。人間はどんどんと安易なほうに流れるのだ」とかそのようなことを言っていた。そういう理屈もあり得るとは思ったが、納得はできなかった。母親はオロオロするだけで、そのあたりとなると頼りにならなかった。
学生時代の私は授業料(今と比べると安かったが)や小使いは、家庭教師を数件かけもちで全部自分で稼いだ。学部では育英会奨学金は親の所得制限で貰えなかった(ということは、相対的には恵まれていたということを意味している。お金を使わない親だったというだけだ)。
それから食生活について。母は内職もしていたが、家は汚いままで昼はよその家のお手伝いさんに行ったりしていた。家の食事を作るのは兄と私だった(作ると言っても、インスタントラーメンとか、素のソーメンばかりの乏しい食事だった)。お客さんが来ると、ラーメンの出前をとった。もちろんお客さんの分だけだ。お客さんの残したラーメンのなるとや汁を飲みたかった思い出がある。
買物は良くさせられた。ハムを買ってこいと言われると、意味していたのは最も安い「徳用ハム」だ。選択肢は全くなく、何かの切れ端で食べるロースハムは憧れであった。お徳用ハムの記憶は鮮明で、いつも気持ちが悪い赤青い色をしていた。また肉と言えば、たまに食べる贅沢品の「豚小間」、それ以外は知り得なかった。他の部位が店には並んでいるとしても、あることも知らなかった。牛肉はあまり食べたことはなかった。近所の肉屋F店に買いに行くときに買うのは晩のおかずのコロッケ、一人あたり1個だったと思う。F君はクラスメートでもあったこともあり、そのようなおかず生活が知られるのはとても恥ずかしかった。どんなに広い売場にある商品も、親の指定したもの以外を見るのは無意味だった。
卵というと貴重品で、みんなで1個を分けて、少しずつご飯にかけて食べるのが普通だった。みそ汁の具はホウレンソウだったが、煮干しをそのまま入れてのダシとし(ハラワタなどを取除かなかった)でまずかった。なぜ、こんな苦い煮干しを入れるのだとクレームすると、栄養があるのだカルシウムになるのだから食べろと言われた。まずいというと、そんなこと言うなら食うな!!と、他の食べものも取り上げられるので、やむなくゴクンと飲み込んだ。下処理などはしていないから、魚の生臭さや野菜の青臭さは、そんなものだと思っていた。だから、家での食事は決して楽しいものではなかった。学校給食は皆はまずいまずいと言っていたが、私にとっては美味しかったし楽しみであった。脱脂粉乳でもコーヒーが入っていれば満足だった。
 買物以外には、風呂沸かしや練炭の用意は私の仕事だった。着るものもみすぼらしいもので、住居も廃屋同様の長屋の官舎で、周りが豊かな生活に向かい始めたにも関わらず、衣食住の終戦モードは長く続いていた。
 
このように記すと親にクレームしている印象を持たれるかも知れないが、意図はそうではない。判断基準で品質は対象外、価格の最も安いものというだけだったので、余計なものを見る必要はなかったから楽ではあった。あの頃はどの家も貧しかったから、どこもそんな生活だったよと言われることはある。世の中はそういうものだと思っていた。妻から「子どもの頃に、親からこんなものを買ってもらった?」などと聞かれると、何か買ってもらう等は論外なこともあり、いつも不機嫌になる(この頃は理解したようで、触れなくなった)。
暗いあの子ども時代をあまり思い出したくないし、あの頃に子どもだった自分たちが不憫でならない。家の仕事をしても時間は有り余るほどあり、時計の針の進むのが遅く感じられた。もうすぐ来る 8月のお盆の親を偲ぶ兄妹会では、安いモノ買いの行動パターンは今でも深く染み付いて抜けないといった類の昔話にしばしばなる。
 とはいえ結果的に、丁稚奉公をすることなく大学まで行かせてもらった。大人になって、自分のことが親に経済的に依存しなくてできるようになって、親からの呪縛がとけた。うまくいかなかったことは勿論多々あるものの、終わりよければ全て良し、結果オーライだ。私達は持っているものには(長いこと)気づかず、不足していたところにばかり目がいく、誰しもそんなものかなと思う。